1964年、当時、横浜・聖光学院の学生であった小田和正、鈴木康博、地主道夫、須藤尊史が、翌年の学園祭(聖光祭)でのステージを目指して、バンドを結成する。
翌1965年、4人は聖光祭のステージに立つ。しかも当初予定していた午前中の演奏だけでなく、観客のアンコールを受けて、予定にはなかった閉会式でも演奏する。
このバンドこそ、後のオフコースの前身バンドである。

1966年、小田と地主は東北大学、鈴木は東京工業大学と別々の大学に進学するが、三人はバンド活動を継続する。ネットも新幹線もない、東京(横浜)と仙台に分かれての音楽活動は、鈴木が車に器材を積んで仙台へ向かったり、あるいは手紙によって補われていた。
同年8月には聖光学院野球部OB会「OF COURSE」の支援を受ける形で、横浜勤労会館でリサイタル「第1回 FOLK SONGの…」開催。
翌1967年3月、横浜勤労会館でのリサイタル「第2回 FOLK SONGの…」で、三人のバンドは「OF COURSE」に敬意を表する形で「THE OFF? COURSE (ジ・オフ・コース)」と名乗るようになる。

1969年、ジ・オフ・コースは第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに仙台地区からフォーク部門で出場する。三人はこのコンテストの全国大会でグランプリを取って、音楽活動を終えるつもりでいた。
ジ・オフ・コースは順調に全国大会に進み、ピーター・ポール&マリーのカバー「Jane Jane」とミュージカル「バーディー・バーディー」挿入歌「One Boy」を演奏する。
ジ・オフ・コースの全国大会での結果は第2位、彼等の前に、新井潤子(山本潤子)らのバンド・赤い鳥が立ちはだかったのだった。グランプリを取った赤い鳥の実力は、ジ・オフ・コースの三人も認めるものであった。小田和正はこの大会で最優秀歌唱賞を受賞したものの、自分たちを上回る実力が備わったミュージシャンが現れたことで、「このまま終われない」想いを抱くようになる。

ジ・オフ・コースは赤い鳥と共に、コンテストを機に各地のコンサートに招かれるようになるが、音楽を止めるか、プロのミュージシャンとして活動するかの逡巡は続く。
そんな中、コンテスト主催者のヤマハから、レコードリリースの話が舞い込む。この打診にジ・オフ・コースは応じ、レコードリリースが決まる。
レコード会社は東芝音楽工房(後の東芝EMI)。楽曲はヤマハの作曲コンクールに応募してきたアマチュアの作品に、当時「世界は二人のために」「夜明けのスキャット」で有名となっていた山上路夫が詞をつけることで制作された。現在は主に自作曲で活動する小田和正・鈴木康博だが、当時のジ・オフ・コースはコンテストの出場曲が示すように、主に洋楽のカバーを演奏するバンドであり、オリジナル曲は皆無であった。レコーディングでも楽器演奏は全てプロのミュージシャンが担当し、ジ・オフ・コースは歌うだけであった。

1970年4月5日、ジ・オフ・コースはシングル「群衆の中で」でデビュー。B面(カップリング)は「陽はまた昇る」、両曲には「LONELINESS ALONG THE CROWD」「THE SUN ALSO RISES」というサブタイトルが付された。
ヤマハはレコードデビューを機にジ・オフ・コースを売り出す気であった。しかしジ・オフ・コースは元々コンサートに重きを置いていた上、小田・地主の卒業論文制作も重なり、ヤマハが持ち込むメディア出演のプロモーションを断り続けた。このことで、ジ・オフ・コースとヤマハとの関係はいったん途切れる。

シングルリリース後、ジ・オフ・コースのメンバーにも変化が訪れる。
1970年11月、三人の後輩である小林和行が加入する。
鈴木康博は大手企業の内定を断ることで、早々にプロ・ミュージシャンとしての道を選ぶ。一方、地主道夫は1971年2月ににジ・オフ・コースを脱退、早稲田大学建築学科に編入して建築家を目指す。小田和正は音楽か建築か、答えの出ないまま、ジ・オフ・コースに在籍したまま1971年に早稲田大学大学院理工学研究科に進学する。
1971年5月、ジ・オフ・コースはかぐや姫・加藤和彦・杉田二郎らが所属していたパシフィック・エンタープライズに所属し、ボン・ミュージックと音楽出版契約を結ぶことで、プロミュージシャンとして本格的に活動する。

1971年10月5日、小田和正・鈴木康博・小林和行のジ・オフ・コースは東芝音楽工房からセカンドシングル「夜明けを告げに」をリリースする。
「夜明けを告げに LEAVING ALL BEHIND」は同じ事務所で、このシングルのディレクター・梅垣達志の友人でもあった元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦が作曲、後に子供番組の構成・脚本で有名になる山川啓介(井出隆夫)が担当する。編曲を担当した青木望は、その後のオフコース作品にも参加している。
B面は小田和正作詞作曲の「美しい世界 IF YOU REALLY LOVE ME」(編曲は青木望)。一般的に小田和正最初のオリジナル曲と言われ、そのことを小田自身も自認する「僕の贈りもの」よりも2年前に発表していたオリジナル作品である。(但し「美しい世界」より前に、「僕の贈りもの」が書かれていた可能性がある。)この曲は、小田は「このひとときを大切にして」と題していたが、レコード会社の意見で、「美しい世界」に変更された。

その後、ジ・オフ・コースはグループ・サウンズなどの編曲や「シャボン玉ホリデー」「笑点」などのテレビ番組の音楽制作で名を馳せていた東海林修に注目される。
1972年4月25日、オフ・コースと改名してサードシングル「おさらば」リリース。「おさらば GETTING BACK TO LIFE」は東海林が関わっていた第1回東京音楽祭に出場することを目的に、作詞・作曲・編曲も彼により作られた。B面曲「悲しきあこがれ MEMORIES OF A FORGOTTEN TOWN」は作詞は山上路夫、作曲・編曲が東海林修である。このシングルには、マネージャーの吉田浩二がコーラスで参加している。
第1回東京音楽祭には吉田も加わった4人編成で出場するが、入賞を逃す。この時にメンバーはテレビ制作とそりが合わないことに気がつく。更に、東海林の紹介でNHKの若者向け番組「ステージ101」のオファーがあるが、前任者の「ワカとヒロ」の楽器も持たずに踊って歌うスタイルに抵抗を感じた小田が拒否することで、その傾向は顕著になる。この後、オフ・コース(オフコース)はレコード制作とコンサート活動に重点を置き、テレビとは距離を置くようになる。

吉田の加入は元々一時的なものであった。そして小田・鈴木は小林の将来を考えて学業に専念するように説得する。
1972年5月、オフ・コースは小田和正・鈴木康博の二人体制となる。
1973年2月、オフ・コースは4thシングル「僕の贈りもの」リリース。そして同年5月、ファーストアルバム「オフ・コース1 /僕の贈りもの」リリース。この頃には小田和正・鈴木康博共にオリジナル曲を制作するようになり、アルバムには「群衆の中で」「陽はまた昇る」「夜明けを告げに」「おさらば」「悲しきあこがれ」、そして小田作品の「美しい世界」は収録されなかった。
そしてオリジナル曲の充実と共に、これら6曲はステージで歌われることはなくなった。その傾向は、1974年のライブアルバム「秋ゆく街で/オフ・コース・ライヴ・イン・コンサート」で、洋楽・邦楽のカバーを収録しながらも、これら6曲のいずれも収録されていないことでうかがえる。

2000年、鈴木康博は細坪基佳との共作アルバム「四月になれば僕らは」で「群衆の中で」をカバーしている。
一方、小田和正はプロフィールには「1970年「群衆の中で」でデビュー」と書かれているが、2004年に制作された自身の音楽史をベースとしたTBS系音楽番組「風のようにうたが流れていた」でも、「群衆の中で」をはじめとする6曲は取り上げられておらず、その後も演奏されていない。


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